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自然と戯れたり、ボールの動きに一喜一憂したり、人の動きに涙したり・・・。
当ブログでは、私の大好きな運動の豊潤な側面であるスポーツ・遊びにまつわるよもやま話、ちょっとイイ話などを、気ままにアップしていきます。 ブログパーツ
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今日は、毎週いっている某中学校バレー部のトレーニングの日。
巧緻性、協応性を主に扱ってきたわけであるが、今日は、すこし目先を変えたトレーニングを行った。 同行した研究生は、「勘」という部分を顕在化させるトレーニングを行った。 運動には、刹那性とともに、偶然性という部分が大きな役割を果たすものである。 こうした事実は、意外と運動学習においては、忘れられがちである。 無論、結果が最優先される勝負の世界だから、こうした「勘」などには頼れないという現実もうなずけるのだが、こうした「勘」がぴったりあてはまったり、外れたりすることが、運動の世界を限りなく深遠かつ開示している理由でもある。こうした「勘」を働かせることで、子どもたちの運動が一気に血の気を持ったもの、「いきいき」とした子供特有の「とんぼとり、今日はどこまでいったやら」のような終わりのないものとして、運動が拡大しだす・・・。 この運動の世界の常識をいかに、トレーニングの常識とするか、これからの課題だ。 引き続いて、私のトレーニング。 バレーボールのネットにビニールシートをかけて、相手コートをみえなくさせるトレーニング。 これが、また面白い。目新しさだけで暫時の息抜き的エクササイズと終わるかと思われたが、 意外にも、子どもたちの目は、超真剣そのもの。 普段みられないような動きが連発! 動きすぎて、となりのプレイヤーとぶつかったり、飛び込んで肘をすりむく子がでる始末。 いったい、動作のブラックボックスの鍵をこじ開けたのはなんだったんだろう??? 見えるものと見えざるものの質的変換であろうと思う。 つまり、これまで、相手コートには、自分ははいれないけど、外からみることができるものだった。 しかし、相手コートが見ることができなくなったとき、はじめて、相手が見えないなかでプレーする ことの不安とスリルが彼女たちを襲ったのではないか?もっというなれば、これまで見ていたことで「見えざるもの」となっていたものが、見えなくなったことで「見えるもの」となったということである。 これまで、相手コートに入れなかった選手が、相手コートの音、気配、わずかに見える制限された視界から積極的に相手コートに入り、見るようになっていたのである。 これにより、これまでの運動パタンが一気に瓦解し、ぎりぎりのプレーを許容するようになったと考えられる。 こうした見えているものに安座することなく、見えざるものを常に提示することで、さまざまなものが、「見えるようになる」かのメルロー=ポンティがいっていたことが、なんとなく分かったトレーニングであった。 これは次回もう一回やってみよう。ビデオにとっちゃおう。
by dionysos30
| 2004-06-10 12:38
| 研究
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